エッセイ

私は自由だ。バイタリティーの泉を探すんだ。

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逡巡する瞬間

最近、これは出かけるべき用事なのか、と反射的に日常の外出を審査していることに気づいた。

外出の用事を思いついた時、まず思いとどまって判断している瞬間がある。病院に行くのはOK。スーパーもOK。気分転換に本屋さんに行くのは逡巡。ふらっと電車に乗って美術館やごはん屋さんや服屋さんに行くのは審議。

あらゆる出入口にはアルコール消毒が置いてあるし、すれちがう人はまずマスクをしているから、一瞬迷っても電車に乗らない用事なら大抵は出かけるようになった(もちろん、油断せず気をつけつつ、だけど)。前もって計画していた予定は、予定を決めた時点でいろいろ考慮しているし、生活や健康に直結する行かないと困るような用事は、外出するのにあまり迷わない。

ただ、外に出ることが目的みたいな外出を当日思いついて、みたいなとき、踏みとどまることが多くなった。あ、あそこ行きたい、だけでは外出しづらくなっている。ふらっと出かけることが以前よりも減ってしまった。不要不急という言葉を見聞きしすぎた反動だと思う。

なにをするにもまず「やるべきか」を一瞬考えるようになってしまった。

帰ってきて、休み時間のバイタリティー

なにが不要不急かは、他人に判断されるものではない。立場や状況は人それぞれだから、結局は自分で見極めて自分で気をつけるしかない。突き詰めればそれは以前から変わらないことだ。外出すれば事故や事件などあらゆる危険はあるし、生きているだけでリスクは伴うのだから、何を選ぶかというだけだ。

でも確実に、不要不急かどうかで自分の行動を一瞬審査し制限している部分はある。「やりたい」と思った気持ちが「やるべきか」という基準で精査されている。

「やるべきか」という基準には、他人の目や世間体が多少なりとも含まれているから厄介。ほぼ無意識的なのも厄介。最近本当にフットワークが重くなったと思う。

子どもの頃は、学校の10分の休み時間でも外に出て遊んで、また教室に戻ってきていた。今考えるとものすごいフットワークの軽さ。なんでだろう、大人になってそれはなかなかできないなあと思う。そこに不要不急審査という追い打ち。けっこうな決心と元気がないと、腰が上がらなくなっている。いかんいかん。これはよろしくない傾向だ。休み時間の感覚を思い出さねば。

水遊びをする二人の女の子

行きたいから行く。やりたいからやる。これって人間の基本的な精神状態だと思うんだよね。欲望って大事。できればこれはせき止めたくないもののはずだ。しかしすぐに、意味があるか、損得勘定で考え始めてしまって、やりたい気持ちはすぐに失せてしまう。欲望の賞味期限はとても短い。いろいろ考えだすとすぐに面倒になってくる。

大人に落ち着きがあるように見えるのはただ元気がないだけってなにかで聞いたけど、元気のあるなしって欲望が健康的なときに動くか、考えて止めちゃって賞味期限が過ぎちゃうかの違いなんだろうな。

大人になってただでさえ欲望の賞味期限切れを起こしやすくなっているのに、何をするにも反射的に「止まれ」を一旦はさんでしまうのが癖になってきている。不要不急審査を自分に変に課してしまっているのが、またさらに拍車をかけている気がする。

子どもの頃みたいに、欲望はそのままで充分行動の動機になりうるはずなのに、そのまま動けない状況は精神的に窮屈で不自由だ。本来行動の判断基準は自分でいいはずなのに、不要不急について考えると他者に介入されている気になってしまう。もっと自分の心を大切にしたい。

家にいても、この行動には意味があるのか、やるべきなのか、と考えるだけ考えて、ちょっとしたことすらできなくなってきている。暗い梅雨空で気分が沈みがちなところもあるかもしれない。

人間が楽しめるものって無意味だったり、やるべきとは言えない物事だったりする。だから意識的に思い出したい。自分は何をしてもいいんだと思えると、気持ちもフットワークも軽くなるはず。

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好きもいろいろ

今私は、本を読んでもいいし、音楽をかけてもいいし、映画を見てもいいし、お菓子を作りはじめてもいいのだ。習い事をはじめてもいいし、散歩に出かけてもいいし、泳ぎに行ってもいい。絵を描きはじめてもいいし、靴を磨いてもいいし、お昼寝してもいいし、楽器を鳴らしてもいい。走りに行ってもいいし、バッティングセンターに行ってもいいし、ぼーっとしてもいいし、行きたいけど行けていないところに遠足してもいい。

自分はなにをしてもいい。
なんでもおもむろにはじめていい。

そう考えると、いろいろやりたいものがあったなって思える。本来自由なのに、無意識に制限をかけていたんだなって気づく。

やりたくなること、好きなことって、思い浮かべるだけで楽しい。たくさん挙げていくと、好きにもいろいろ種類があって面白い。

好きでも、やりたくなる人とやりたくはならない人がいる。

数年前、友達10人くらいと集まってご飯を食べる機会があった。ご飯の後、みんなしょっちゅう集まれるわけではなかったからなんとなく帰りがたくて、カラオケに行こうということになった。そのとき、「僕は歌わないで聴いてるだけでいいや」と言った人がいた。(歌わなくてもカラオケには来てくれた。)

あ、世の中には「歌う人」と「歌わない人」がいるんだな、と思った。

私は自分がカラオケにも行くし「歌う人」だったから、「歌わない人」がいる、ということをそれまであまり意識したことがなかった。でも考えてみれば、そりゃあ「歌う人」がいるんだから「歌わない人」だっている。そんな当たり前のことを、当時は新鮮に感じた。その時歌わないと言った人とも、よく音楽や歌手の話はしていたからだ。

歌手の新曲のMVが話題になったとして、まずそれを見て聴いて楽しむ人がいる。上手な歌を聴くと、自分で歌いたくなる人もいるし、聴くのは好きだけど別に自分で歌おうとは思わない人もいる。歌ではなく演奏の方が気になって楽器を弾きたくなる人もいるし、作曲したくなる人もいるし、そうはならない人もいる。MVを見て、自分も撮りたくなる人もいるし、映像編集したくなる人もいるし、衣装をつくりたくなる人もいるし、ヘアメイクを真似したくなる人もいるし、照明効果を実践したくなる人もいる。同じMVを見ても、そうはならない人もいる。それって個性だ。

バンドステージ

私が住んでいる家の徒歩圏内に、おいしいラーメン屋さんがある。私は特別ラーメンが好きな人間ではないと思うけど、そんな人間が食べてもおいしい。麺が単体でおいしいとわかる。スープもとてもおいしい。チャーシューも柔らかくておいしい。はじめて食べたときは感動した。

しかし、ラーメンが特別美味しかったからといって、自分が作る側になろうとは思わなかった。このラーメンは好きだ!と言える体験をしたからって、家で麺を、小麦の種類から、塩や水の配合から、太さやゆで方から、研究したいとは思わなかった。自分でスープをまずは再現したい、とも思わなかった。ラーメンに関して、私は食べる側としての感動だけで充分満足している。

なにかを見たり知ったりしたとき、その触れた物や分野に興味を持つ場合も、スルーする場合もある。自分の興味が受け手として完結するものだって、受け手としてその物や分野を確かに「好き」だろうし、受け手になったことをきっかけに自分でやる側にまわりたくなる物や分野のことだって確かに「好き」だと思う。

自分の「好き」の先に好奇心があって、「やってみたい」という欲望が少しでもあることに気づいたら、そのまま行動してみたい。

なにに対して「やってみたい」と思うかはきっと根拠がなくて、ただその人の個性だと思う。技術や経験の有無に関わらず、根拠なく「あ、(そのうち)やってみよ」とハードルが低く思えるものってある。

私は、実際にやるかは別として、きれいな絵を見たら描きたいなという気分になることはあるけど、例えば菅原小春さんのかっこいいダンスを見ても、自分も踊りたいなという気分にはなりにくい。そりゃあキレッキレのダンスができたら確実にかっこいいし憧れるけど、あまり自分事としての想像がつかない。見る側、受け手としてなら想像はたやすく、いつまででも感動して見ていられると思う。

〔 三浦大知の曲に菅原小春がダンスで共演しているMV。かっこよすぎる… 〕

私にとって「絵を描くこと」はやりたいなという気分になれるほど自分側にあり、ダンスは自分もやろうという気分に気軽にはなれないほど外側にある。私は多分「描く人」で、「踊らない人」だ。いろいろな物事への親近感の違いが、人それぞれの個性になるんだと思う。

そしてその個性は経験で変わったっていい。気づいたら私も「踊る人」になっているかもしれない。自分の変化も楽しみたい。

湧き出せ興味、元気な大人。

やる側になるのに抵抗がないというか、気軽に好奇心を持って近づきたい気分になれるものを、自分の中で自覚していたら強いと思う。自分の長所を自分で自覚しにくいのに似ていて、意識的に気をつけて自分の好奇心がどこに向くのかアンテナを張っていないと、すぐに忘れてしまう。

自分でもやってみたいという類の興味をもった物や分野って、大切に覚えておきたい。「やってみたい」と思ったまますぐに行動しづらい今だからこそ、小さな興味の芽を忘れないことは心の豊かさに直結すると思う。気持ちが沈んで停滞したときにそれらを思い出して少しだけやってみれば、心が軽くなるきっかけになるかもしれない。

「やってみたい」という気持ちがあるときにやってみることが一番だけど、一度やる側への興味を持てた分野なら、時間がたってもその興味は失せないと思う。興味を持ったこと自体を忘れることはあっても、その興味がなくなるわけじゃない。どうせまたやる側になりたいという気分になる。

自分の個性を探そうとするとわからないけど、気楽にやる側になれそうなものならなんとなく判断はつく。今は家にいるだけでも、小さなことでも、「やるべきかどうか」で行動を制限する癖がついているけど、窮屈に感じたらその基準を忘れて、ちょっと興味が湧いたときにやってみることは大事だ。

なんたって私は自由なのだから。心の自由を忘れないでいたい。やる側になれそうな気分になったもの、抵抗なく好奇心が湧いた分野、ちょくちょくメモしておこうかな。

そしてはやく外出も自由にしたい。行きたいから行く。そんな当たり前のことを当たり前にできるようになってほしい。ふらっと気軽に出かけるあの感覚が、私の精神の健康には必要だ。出不精な私も元気な大人になりたいし、世の中もはやく元気になるといいな。