ピアノの…、いや。
いま
両の眼球が触れている、
この宙空を
楽器の音が浮遊して
立体に仕上げていくところ。
風、ひとふりで
ちらちらと過ったもの、
羊のように逃げていく。
放した言葉を音として
ただそこで聴いていてほしいと
申し出るのが
苦手な季節だ。
マスクはいらないけれど。
できるかぎり目隠しをして
外を歩きたいから
きっと近眼になった。
メガネをはずして両手でたたみ
片手で胸ポケットへ、
単音のようにすとんと落とす。
昨日、鍵をとりこぼしたほうの手で
恣意の方の手で
体感温度で伝わらないものがあると知って、
手触りはひどく希釈されていた。
何気ないしぐさで
言葉はたやすく悴むし、
楽譜が読めなくて
指先からそっと
迎えにいったことがある。
水彩に架かる橋を
安易にくずしたい衝動。
生まれたときから、
無音が怖い。
無音で成り立つものが。
背景にはドビュッシーを、
花瓶にはささやかな流水を置いた。
チャイムが抜けてまた明日、
当然に晴れを想定したまま過ごすことが
不自然で可笑しい。
無いものを
ほのめかすだけの装置ばかり。
あたたまったり
ひえたりして
それでも見栄をはって僕は。
『 手触り 』
〔 第16回 文芸思潮現代詩賞 佳作 〕
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