七夕デート
七夕がふらっと過ぎました。
七夕って晴れない。よく考えたら7月はじめってまだ梅雨の時期でもあるんだよね。毎年雲ばっかり見ています。
もはや毎年この日ばかりは織姫と彦星の2人のためだけの天の川になっているのだと思っています。のび太のようにふわふわの雲に寝そべって、あれが天の川きれい~なんて見上げて楽しむデートを堪能しているのかもしれない。
水族館にある、トンネルを通ると頭上をイルカが泳いでいきますよ~な水槽みたい。プラネタリウム×水族館。最高の組み合わせだ。年1だもんね、楽しみたいよね。
ココロ自家発電
七夕の伝説では年1回の逢瀬で勤勉さをとり戻す織姫と彦星のおふたり。ご褒美が年に1回でよく足りるなあと感心してしまいます。
私は年に1回ではきっと足りませんが、先の楽しみがあるといいらしいというのは理解できるので、七夕伝説に倣って私も少し先に楽しみを配置しています。ふふ。
1か月ほど前に仕込んだ梅酒とか、(仕込んだちょっとあとに書いた記事がこちら ↓ )
ひっさしぶりに買うことにして予約した服とか、少し前に世界どこでも送料無料で話題になっていたホテルザッハーのザッハトルテとか。
梅酒は飲めるとしたら半年後からです。服は長袖なので着るのは秋以降になります。ザッハトルテは注文時には今頃もう届いているつもりだったのですが、予約が殺到したらしくまだかかりそうです。ザッハトルテはしっかりめのチョコレートのケーキなので、届くのが遅くなるならいっそ秋冬になっても嬉しいかなとか思いながら、いつ届くかとわくわく待っています。
大体いつ頃になるのかわかっている楽しみも、いつになるのかわからない楽しみも、どちらも毎日を少しずつ大丈夫にさせてくれる気がして好きです。照準を合わせて準備して過ごすのも、いつになるかわからずだたワクワクと待って過ごすのも、どちらも許されている時間は嬉しい。
本当に無理になっているときは、今、目の前に、マイナスをゼロにするような休憩や優しい楽しみを置かないと苦しいですが、自分がある程度元気な時にも、+3が+5くらいになるようなご褒美を用意しておきたい。少し先にわくわく楽しいことがあると、心が疲弊して減るのではなく、徐々に充電されて増えていく感覚で生活できる気がします。
いいぞいいぞって自分で思えるくらいには生活に明るさをつくりたい。意識的に自家発電。
子どもの頃は周りの大人たちがイベントを作ってくれていたから受動的でも楽しく過ごせていた部分もあったのかもなあ、とふと思いました。大人はうっかりしているとほぼ昨日みたいな毎日がのっぺりと過ぎていきがちだから、楽しめるイベントや変化を自分から選んで作っていくことが大事なようです。生きる自由でもあり、難しさでもある。
ほどよく予想外が欲しい
把握しきれないという要素が大事なのかなって気もします。
たとえば、一人暮らしで毎日自炊していると、冷蔵庫の中身も作る過程もその結果できる料理の味つけや具材や量も、すべて自分で把握していることになります。料理をすると決めた時点で今日の夕ご飯がなにかを自分が知っています。自分ひとりじゃレパートリーだって限られてくるし、自分が思った通りのもの、予想通りのものしかないと、飽きてきます。
そして、他人のつくった飯が食べたい、になります。全く自分の行動のとおりにできあがるものではなく、つくる工程を知らない、自分で把握していないところから出来上がったものが欲しくなります。
自分の行動の外からできてきたものの方が、驚きと感動があるのかな。すごーーーく小さくて自覚できないほどの。自分の把握できる範囲外にも生活や思考や世界が広がっている驚きと感動。
自炊したら自分の行動の通りのものができるのは当然で、むしろそれしかできあがりません。そこに驚きはないけど、他人が作ったものは(何をつくるとあらかじめ分かっていても、)少なくとも自分の行動の外から完成品がやってくる、というところに微々たる驚きがあるんだろうと思います。
そういう、把握しきれないがゆえのちいさーな驚きと感動。
少し先の日常に楽しみを持ちたくなるのってそういうことなのかな、と思いました。未来のことはわからないから、予定を決めたとしても今の自分の行動の範囲外なんだろうと思います。自分の外からやってくる、自分がすべて把握しているわけではない物事に、小さな驚きとわくわくを感じたくて、それがご褒美になるのかな。
把握しきった日常の自分の行動に飽きてしまっても日常生活は漏れなく続くから、自覚できないほどの微々たる驚きであっても定期的に感じたいのかもしれない。
全く分からないのではなく、ある程度自分で把握しているけど、すべてではない、その加減もちょうどいいのがご褒美なのかもしれない。ちょっと予想がたつけど全部は予想通りにならないのが、予想して楽しみつつ、来てみて驚きもあって楽しいのかも。他者と関わりたいという感覚も、そういうところあるかもしれない。自分では予想しきれない他者の反応によって変化する楽しさ。
自分に飽きるのが一番退屈なことなのかな。いくつになっても未知はわくわく楽しいんだろうな。
織姫と彦星も、一年ぶりに会う相手の変化を楽しんでいたのかもしれません。毎年誰が来るのか全く分からないんじゃ不安だし怖いけど、好きな相手が来るとわかっていれば当日も当日までも楽しめそうです。そして、相手も他人だし1年ぶりだから、好きな相手の予想しきれない部分が楽しくて、七夕にはきっと会話も弾むことでしょう。