エッセイ

違うところに行く

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違うところに出かけた、ということの精神的な影響はすごい。旅行は、行こうと思えばいつでも日常から離れられる、という自分への証明になるんだなあと思った。

少し前に温泉にいってきた。鬼怒川温泉に1泊。旅行がとてもとても久々だったからか、息を吐いて身体がゆるむのを感じた。ただただ開放感だった。行ってみて初めて、日常のなかにいるとなんとなくずーっと緊張しているんだなあと思った。

観光地には行かなかった。1泊2日で観光地を巡るとどうしても忙しなくなるから、観光はもっと日にちがとれたときに、ということにした。今回は温泉に入ってゆったりのんびりするための時間。メインは温泉とごはん。ホテルに籠城した。

ホテルに着いてすぐ、ホテルの方々が「お疲れ様でございました」と言って迎えてくれ、入り口を入る前に気づいて出てきて荷物を持ってくれたとき、ああ、もてなされている…と感動してしまった。温泉地の旅館やホテルならこれはまったく珍しいことではないだろうけど、私の日々にはなんだか久しぶりで珍しいことだったみたい。それだけのことにじわりときてしまった。労ってもらいたかったのか。

時間を気にしないぶんとても気楽で、内容としてはシンプルに移動と温泉とごはんだけだったのに、なんだかとても充実していた。これが話題のリトリートというやつか。気持ちがじっくりとあたためられて、充電回復したー!という快い感覚で満たされていた。静養。しあわせ。刺激を求めて観光旅行も楽しいけど、こういう旅行の楽しみ方もあるってことを、知れてよかったと思う。

違うところにでかけること。自由に「普段」から離れることができる、という発想をこころに与えるために必要な行為だった。一度の旅行はそのあと続く日常にしばらくの効力を発揮する。どこでも行けると思うだけで気持ちに少し風が吹き、その余裕が自分の視野を広く保ってくれる気がする。

旅行とは関係ないけど、みんなそういうこころの自由が日常に欲しいんだよなあ、と思った。最近普及しているサブスクリプションサービスってたぶんそういうことだ。音楽を聴いている時間、映画やドラマを見ている時間 そのものだけではなく、どれでも選べる、いつでも視聴できる、と思って過ごす時間を買っているんだろう。

日々が楽しければそりゃあなにも言うことはない。しあわせなことだ。規則的な生活習慣は健康にもいいという。でも、同じ毎日ばかりではどうしても息が詰まることだってあるし、知らず知らずのうちに思考も感情も固くなってしまいがちだから、自分が自由だと思い出せる行為はとても大切だ。やろうと思えばなんでもできるということを、不自由を感じるときにこそ思い出したい。身体の健康と精神の健康、どちらも大事だよ。

違うことをする。違う場所に行く。違うものを選ぶ。ご自愛だったのか。
こころは行動の後追いをするものらしいから、たまには心がけよう。