エッセイ

ひとの言葉が欲しいとき

日常 アイキャッチ画像
当サイトは記事内に商品プロモーションを含む場合があります

昔は読むならもっぱら小説で、教科書でしかエッセイなんて読まなかったけど、最近はエッセイをよく読むようになった。ひとりで考えるより誰かの考えに触れたくなったのかもしれない。

エッセイはそのひとのとても個人的な事情や思考が書いてあって、著者の性格や雰囲気が滲んでいて、それなのに理解や共感ができるからすごい。

本人を知らないのに本音がそこにあるから、勝手に親友みたいに思える。親近感というと弾みすぎているけど、一対一で語り合っている喫茶店の席で、相手の話を聞くフェーズ、みたいな時間になる。人間性を近くに感じる。

客観的な見方を自覚しながら、主観でしかない言葉を書くのがエッセイなのかな。明かしてくれるもの。

著者の核心にひりひりするほど近いところから出た言葉なんだなって思えて、お互い見ず知らずなのになんだか信頼できるなって思えてしまう。普段生きていて、自分の本音しかはっきりわからないから、自分以外のひとの本音が見えると安心するのかも。

文字通り「考えに触れる」ことができるのは、文字になっているからこそだ。

見栄も損得勘定も忖度もなしに自身の思想や本音を吐露しあうことは、むしろ対面の方がむずかしいだろう。それができる相手がいる人は幸運だ。だからこそ、忌憚のない誰かの言葉が欲しくてエッセイを書いたり、読んだりするのかもしれない。

私は主観でしかない言葉は外に出してはいけないと思っていた。思っていたというか、そういう感覚が普通になっていたことに、エッセイを読んでいて最近気がついた。

いつからそれが普通になっていたのか、はっきりとはわからない。

SNSに感想を書いたら友達から「おいネタバレ(やめろ)」と言われたときかもしれないし、自分の素直な見方や意見をこぼしたら相手にすごく警戒した表情をされたときかもしれない。

そういう経験が積み重なっていつしか、自分の見方や意見はおろか、ちょっと思ったことすら、発するのは禁忌のことになっていた。

SNSは、書かないか「匂わせ」た書き方をするかになっていた。だれかと話すときは、聞く側にまわって当たり障りない反応をして、相槌ばかりで自分のことはあまり話さなくなった。最近までそんな自覚はなかったけど、そうだった。

知らず知らずのうちに糸が捩れて絡まっていたのが、自分はそうなんだと自覚しただけですこしほぐれた気がする。

だからエッセイに書かれたそのひとの素直な見方に、それを公に出せることに、憧れているのかもしれない。

特に最近は自分の言葉をリアルタイムで公の場所に出しておけるから、そのぶん各方面への配慮のしかたも難しい。

友達にネタバレだと指摘されたとき、私はネタバレはしないようにと確かに考えていた。「ここまでは平気だろう」が個人によって違うから、最大公約数をとらなくてはだれかを傷つける結果になってしまう。内容やタイミング。難しい。

配慮しながら自分の言葉を発せる技術や知性が羨ましくなってしまった。

主観でしかない言葉を書くのは今どき難しいな、と思う。でも、だれかと間接的にでも信頼関係を結べる言葉って素敵だな、とも思っている。