エッセイ

梅酒と大人と世界たち

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梅酒を仕込む季節です

スーパーに青梅が出まわる季節になりました。なんとなくやる気になったので梅酒を仕込みました。人生で3回目くらいかな。時間を置くほどおいしくなるなんて、いいシステムだ。

小さい頃は梅酒と一緒に大人たちが梅シロップを作ってくれた記憶があります。ちびっこにもできる作業だけ手伝って、楽しいイベントでした。氷砂糖が日に日に溶けるのを眺め、梅が黄色っぽくなるのを眺め、液体があめ色になるのを眺めていました。ただ解せなかったのは、梅シロップの方が梅酒よりも少なかったこと。たくさん飲みたかったからね。

梅酒を仕込めるようになって、梅シロップの仕込み方も目に付くようになりました。梅酒はアルコールだから失敗しにくいけど、シロップはけっこう厳重に道具を消毒して保存にも気をつけないと発酵したりかびたりしやすいみたいです。大雑把な私には難しそうに見えたので、梅酒だけ作ることにしました。

梅シロップを氷と水で割って、真夏にひやっひやの梅ジュースを心置きなくごくごく飲んで、あ~!ってのをやりたい気持ちはありますが、そこにたどり着くまでがなかなか大変そうでした。いつか気が向いたら挑戦してみようと思います。

祝・解禁

さて、私はもうお酒を飲んでもいい年齢なので、お酒を飲もうとしてもだれも止めようとはしません。小さい頃、完成した梅酒と梅シロップを開けたときは、そっちはきみのじゃない!とすかさず大人に言われました。区別がついていないちびっこでした。

思えば私は20年間、「お酒は飲んではいけない」という常識で生きてきました。その20年間は、お酒という飲み物は私の飲み物界には存在せず、当然ながら 飲み物=ソフトドリンク という世界でした。

20歳になるとお酒の解禁はひとつのイベントで、今まで禁止されていた未知の領域に許可がおりるのだから、嬉々として、またしみじみと祝うことが多いと思います。20歳になった若者は大人に、「こちら側へようこそ」と感慨深く迎えられます。もうお酒飲んでいいよ!やったね!という雰囲気が、社会全体にある。

テーブルに2つのワイングラス

私も実際20歳になったとき、それまで当然と思っていた自分の可動域がさらに広がるように感じられて、新鮮な気持ちでお酒がある世界に踏みこみました。お酒が飲めるようになるというのは、たしかに喜ばしい体験でした。

しかし、そこから年月が経った今、お酒を飲んではいけないことが常識だった世界が懐かしく思い出されます。考えてみればお酒禁止の期間は20年。人生80年と仮定しても、はじめの四分の一です。

どうして誰も、「お酒禁止が常識なのは人生の四分の一ぽっちだぞ。残りの四分の三はお酒を飲めるのが当然の世界で、そっち側にいったらもうお酒が選択肢にない世界には戻れないぞ。」ということを言ってくれなかったのか。

別になにか後悔があるわけありませんが、単純にそんなことを思いました。

「こちら側へようこそ」という空気の方へ、なんの疑問も未練も持たず踏み越えてきたけど、「このあとはもう一生お酒が飲める世界しかないんだから、ちょっと立ち止まって、お酒禁止の世界を惜しんで味わってみて。」ということを言う人は、そういえばいませんでした。

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感受性と知識

大人たちは青春がまぶしいと振り返る。音楽もテレビも本もしょっちゅう昔を懐かしんでいる。私も大人という年齢なので、その気持ちは共感できます。

でもその割には、踏み越えたら後戻りできない世界だと強調して、短いお酒禁止期間を楽しむよう促してくれる人はいませんでした。ひとりくらいいてもよさそうなのに。

一度お酒のある世界になったら、もうお酒禁止が常識だった人間関係や会話を体感することはできないのです。「飲む」の概念が変わります。単純に「喉が渇いた」ではなくなるのです。ごくごくとおいしい飲み物を味わいにコンビニまで走るぜ!という「飲む」なのか、いざ酔わん!という「飲む」なのか判断するために、言葉が要るようになります。酔う・酔わないを考慮することなく生きることはもうできなくなるのです。

お酒だけじゃなく、さまざまな場面でこういう性質はあると思います。ひとつなぞなぞの答えを知ったら、もうそのなぞなぞの答えを考える楽しみは経験できない。

例えば絵画を見るとき、予備知識や時代背景を知っているのといないのとでは、見え方や印象が変わります。全く何も知らずにただその絵を見て持つ感想は、先入観のないその人の純粋な感受性が表れる。それに対し、さまざまな予備知識を得てからその絵を見ると、予備知識のないときとは違う多面的な視点から感想を持ち、「考える」ということができる。

クロード・モネ『散歩・日傘をさす女』
『 散歩・日傘をさす女 』クロード・モネ

何も知らずに見ただけでは得られなかった発見もきっとあります。先入観のない自分のオリジナルな第一印象に、一歩奥があることを認識できるかもしれない。

でも、意識していなければ予備知識のないまっさらな自分が感じていたことはすぐ忘れてしまいます。人間は記憶をいつの間にか改ざんする生き物なので、知識を得た後に考えたことを、はじめから考えていたと思い込む。

知らないことを知らないままにしておくのは、自分の範囲や価値観をそこまでに限定してしまうから危ういと思うけど、知らないことをこれから知ろうとしているとき、知らないという状態で得られるものも、ちゃんと大切にして覚えておきたい。

世界の範囲を経験する

知らない状態を意識せずにただ知ったのでは、「未知」と「既知」を交換しただけで、自分のオリジナルな感じ方を失いやすい気がします。せっかく自分の見える世界を広げたくて「知る」ことに貪欲になるなら、「未知」の状態で感じる世界にプラスして知った方が、広いしお得。

きっと博識な人や知性のある人って、「未知」も「既知」も自分の世界の範囲としている人たちです。見ている世界が圧倒的に広い。

世界は一人の人生では経験しきれないくらい広いから、自分の世界の範囲が “広がる” 側面に目が行きがちです。だけど、リストをひとつずつ消していくような、”減る” 側面もある気がします。知ってしまえば知らなかったときには戻れません。「知る」ことは、「知らない」を捨てることでもある。知ることを楽しもうと促す声は多いしそれは大切なことですが、同じくらい、知らないという状態も大切に楽しみたい。

特に、初見の知識や経験に触れるときには、「未知」だったときの自分の世界の感じ方を自覚してから、不完全を楽しんでから、進んでいきたい。

「未知」は恥ずべきことではないから、自分を委縮させることなく知りたい世界を知っていきたい。

今未成年の人は未成年のうちじゃなきゃできない経験や感覚を大事にしてねって思います。制限がはずれてからの人生の方が長いので。制限があるからこその楽しみ方ってとてもまぶしいです。ルールがあるからスポーツやゲームは楽しいんだよって、どっかで聞きました。

(と言いつつ、究極的には今の全部が今じゃなきゃ経験できないことなんだけどね。老若男女問わず今が一番若いよね。)

仕込みたての梅酒瓶をゆすっていたら、なんとなくそんなことを思いました。

とりあえず、梅酒がおいしくなるのをワクワクと待っています。そんな6月の金曜日。