エッセイ

【音楽】端正な音の粒と空間(ツィメルマン ピアノリサイタル 2021 感想)

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空間に音が満ちる、というと普段は、音数の多いところや音量が大きいところを想像する。カラオケ店、ゲームセンターや居酒屋の中、工事現場や電車が通る高架下、ミュージシャンのライブの演奏、など。自然界だとなんだろう、大きな滝つぼのそば、とかかな。

誰かと会話していたならすぐ隣にいる人であってもそれまでの声の大きさでは伝わらなくなって、大声で叫びあって言葉を交わすような場面。そんなところを想像する。

でも、必ずしも音であふれかえっていることが、音が満ちている状況ではないんだなと思った。

(前置き)

私はクラシック音楽に詳しくない。好きか嫌いかで言ったら好きだけど、玄人がいくらでも存在する分野で、詳しくない人が単純に「好きだ」とはなかなか言いづらい。ショパンも宮沢賢治もルノワールも。

今回のピアノリサイタルだって、ツイッターを見ると「分かってる」人たちが専門的で細かな部分にまで感想をもっていて、私がこんなところに感想を書くのはなんだか臆してしまう。

音楽理論や曲の解釈・構成のしかたなどの専門的な分析はできないから(ツイッターで見かける感想がみんなすごいの)、どうしたって漠然とした感覚を言語化することになる。

あの感覚を感想として書こうとすると無理やり言葉に変換することになるから、どうしてもわざとらしい大げさな言葉選びになってしまう。感動を感動のまま、そのまま保存しておけないのが口惜しい。

でもこのまますっかり忘れてしまう方が残念なので、やっぱり書くことにした。

ツィメルマンの端正なピアノ

2021年12月13日(月) クリスチャン・ツィメルマンのピアノリサイタルを聴きに行った。東京、サントリーホール。19:00~21:00過ぎ。今年の日本での公演の千秋楽だった。初生ツィメルマン様。

Krystian Zimerman Piano Recital Japan Tour 2021

J.S.バッハ パルティータ 第1番 変ロ長調 BWV825

J.S.バッハ パルティータ 第2番 ハ短調 BWV826

ブラームス 3つの間奏曲 Op.117

ショパン ピアノ・ソナタ 第3番 ロ短調 Op.58

ツィメルマン様、本当に隙のない演奏をする。

音の粒のひとつひとつがクリアで立体的で、細かく速く動いても小さなピアニッシモの部分でも、音が輪郭を失わない印象。ペダルを踏むのが細かいのもあってなのか、ぼやけない。

大きなホールだし天井も高くて、スタインウェイのピアノの蓋があいていて、響きがふわっと広がるのにそれでも音がくっきりと存在していて、とてもいい空間だった。音源では消えてしまう、生音でなければ楽しめない体感。

この空間で、今まさに目の前で、音楽が完成されている。それがとてもうれしかった。空間が巨匠の音楽に仕上がっていく。

ホールに合わせて調律をしてあるだろうし、どうせ難しいことは考えられないし、素直に聴こえた響きを楽しもう、と思った。「ああ身体はこういう音を聴きたがっていたのか」と思ったくらい、身を任せて心地よかった。純度。空間に響く一台のピアノの音にだけ、耳を触れさせている、全身を包まれている。なんともしあわせだった。

強い音だけじゃなく静かな小さな一音でも、空間に満ちているのがはっきりわかった。音が満ちるって、こんなにシンプルで美しいのか。

音がしっかりと粒立って聴こえるのに、やわらかい。クリアな音なのに硬く尖った感じはしない。絶妙な音。前半のバッハで特にその音が分かりやすかった。和音や音数が少ないぶん、ピアノという楽器のシンプルな音をひとつひとつ楽しめた。

そして上半身ごと体重を乗せて情感たっぷりにという風だったのは最後のショパンくらいで、全体的にはどちらかというと淡々と、余裕の表情でさらさらと弾く。子どもが無邪気に楽器をふふ~んと楽しんでいるような余裕に似ている気がした。でも音がさらりとそのまま単調に流れてしまうのではなく、緩急が効いていて聴きごたえがあって多彩な音で。不思議で、繊細で、とても端正だった。

なんとなく優しい語り口のバッハ。この季節に似合う、寒々しい優しさを表したみたいなブラームス。流麗で表情豊かで圧巻!のショパンだった。

天井の高いきれいに響くホールで、大勢の人が自分を取り囲むように座って発生する音を極力なくすようにして自分に集中を向けていて、他に音がほとんどない中で自分の音だけを鳴らせるなんて、きっと一番楽しいのは奏者本人なんだろうなと思った。楽しそうで、見ているこちらも弾きたくなる、そういう人だった。

テンポの速いところがとんでもなく速い(特にショパン)。うひゃーーーーとしか言えない速さ。音階の部分とかグリッサンド(指でひとつずつ鍵盤を弾くんじゃなくて手ごとスライドさせて鍵盤を鳴らす弾き方。小さい頃やりたくなったあれ。)に追いつけるんじゃないかと思うくらい。

しかもペダルを細かく踏んでいた。踏みこむ深さもいろいろで、あの速さで足の動きと手の動きが合致するのが単純にすごい。緻密。小さーい音で均質に高速な半音階とかもう信じられん。速いのに雑さ皆無の丁寧な音で。速いところが速いぶん、ゆっくりなところとの緩急が表情豊かで、滑らかに強弱がついていて強弱の幅も広くて、本当に本当にきれいだった。どこか職人を感じた。

私の席からは手元だけ見えなくて残念だったけど、本当に今この聴こえている音をすべてそこでひとりで鳴らしているのかと思ったら、もうただただ驚嘆しかできない。

ミスタッチも全然なくて澱みなくて安心感があって。肘から指先の筋肉とか、そうとうすごいんだろうな。手指のアスリート。鍛錬と精製。巨匠の長い時間を感じる。

ピアノを弾く人が行うのは、手で鍵盤を押下すること(としいて言うなら足でペダルを上下させること)というとてもシンプルな動作。それを極めて熟達させていくとこんなに「音楽」になるのか。動作がシンプルなぶん集中が切れたら音に表れてしまいそうなのに、他者に横から上から見られ続けながらという状況で曲に没入できるのって本当にすごい。ピアニストってすごい。

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会場の集中力

そしてこれは会場の感想になるのだけど、とても音のいいホールだった。サントリーホールは初めてではなかったけど久しぶりにこういうホールに行ったというのもあって、音の響きに感動した。ツィメルマンが最初に登場したときの拍手の音が、とてもきれいだった。桜の花みたいで。

二階席からも拍手の音が降って響いて、天井もとても高くて、ああ私はホールに来たんだなあ…今から一台のピアノの音に耳を澄ますんだなあ…とうれしくなった。

そしてお客さんはさすがの「分かってる」人たちが多いので、一斉に湧き立つ拍手が響いたかと思うと、ピアニストが椅子に座り始める動作で即静まる。(ツィメルマンは座ってからは溜めずにすぐ弾きはじめた。)

隣席の人の衣擦れの音さえ気になるくらい、会場が静かになる。口だけでなく全身で黙る。水面を揺らさないように。揺らしていいのは彼だけだった。ツィメルマンが水面を揺らす最初の一滴に集中するため、誰もが自分を研ぎ澄まして静止していた。そういう時間だった。

演奏がはじまってからも、ピアニッシモの一音や休符にまでじっと耳を澄ますような客席にはなんだか一体感があって、ピアノの音を聴きやすかった。みんなすごい集中力で、こんなにピンとした緊張感は久しぶりだった。

ホールでは咳がよく響いてしまうものだけど、今回はマスクのおかげかそこまで気にならなかった。我先にと拍手を先走る人もいなくて、最後の一音の余韻まで聴ききってからの拍手だったから、とても心地よくて満足度が高かった。

アンコールはなかったけど、あのショパンの第4楽章のあとにはもうなにも弾くものはないのだろう。アンコールの代わりにツィメルマンがサンタさんの格好して出てきてくれて、それがとっても似合っていた。サプライズ。おちゃめ。

来てくれてありがとう

普段家で音楽をかけても、エアコンやサーキュレーターや冷蔵庫など電子機器のモーター音がずっと鳴っている。他に音がないようなところでただ音楽に集中し続ける時間って、意外と日常の中にない。日常生活では「これ」をしていないんだな、と会場で唐突に思った。だからより音楽を聴くしあわせを感じられた。

大樹の年輪の内のように静かな空間で、ただ一台のピアノの音に集中するなんて、他の何にも似ていない贅沢だった。

ツィメルマン様、こんなご時世のなかよく日本に来てくださいました。咳をしていらしたのが心配。お体に気を付けて、また来年も日本に来てほしいです。素敵なピアノをありがとうございました。

クリスチャン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル