エッセイ

【映画】勝手にジブリ週間してたよ

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見まくった

今なんだか無性にジブリが見たい気分…というときがある。

そんな気分になって先週久しぶりに、千と千尋の神隠し、ハウルの動く城、風立ちぬ、魔女の宅急便、となりのトトロ、の5作品を見た。けっこう見た。ジブリ週間だった。

ジブリの作品はどれも何回も見たくなるものばかり。実際、2回見た。

さらっと楽しく見るのにもいいし、じっくり深ーく考えながら見るのもいい。浅く見ても深く見てもいろいろな角度から面白い。名作ってそういうもんだ。懐の深さを感じる。だから何度も見たくなる。

(話の流れとは関係ないけど、ジブリ作品って今の時点でまだサブスクに入ってないんだね…。ビデオオンデマンド界がんばってほしい…。)

とりわけトトロ

どれも好きな作品だけど、『となりのトトロ』だけは特に何度も見てしまう。(今回もトトロだけ3回 + 巻き戻し複数回 見た。)

私の中で気軽に「もう1回見よう」となりやすいのがトトロ。「また2時間以上のストーリーを追うのか…。精神的な体力が…。」みたいにならない作品だ。

なぜトトロなのかというと、小さい頃に何度も何度も見ていたからだと思う。

母によると私は、ストーリーが理解できないような赤ちゃんの頃からトトロを見ていたらしい。トトロをつけるととにかくじーーーっと見ていたそうだ。その間母は自分のやりたいことが捗るから、「トトロってすごい」と思ってよくつけていたらしい。

トトロを見るのが何度目であっても私は飽きずにじっと見ていたそうだ。声をかけられても聞こえておらず、周囲をガン無視で。私はトトロで育った。サツキとメイと育った。

その、幾度となく見た感覚が、たぶん残っている。今回トトロを見たのは少なく見積もっても十年ぶりくらいだと思うのだが、オープニングの楽器のはじめの一音の音色(おんしょく)を聴いた瞬間に、「なじんだ」感覚があった。映像を見ればなつかしくはあるけど、なんというか、遠くなったものではなかった。

見はじめると、すごく覚えていた。セリフをそらで言える類の記憶ではないけど、身体が覚えていた感じ。オープニングが終わってから最初のBGMが流れはじめるタイミングとか、BGMの音とメロディーとか、キャラクターの言葉の言い方とか動きとか、場面の間合いのようなものとか。

自分の中にあるトトロと無意識に照らし合わせて「完全に一致している…!」とどこか静かに安心したような気がする。私の身体がそうやってトトロを見進めていった気がする。

新たな視点で

とはいえ、子どもの頃には分からなかったことが分かるようになった。主にストーリーの面で。

今見ているものと過去見ていたものが全く同じということは実感しているのに、新たな発見があり違う見え方になるというのは不思議な体験だった。見ている人間の変化か。

ここからは、「こんなんだったっけ!」と思ったところを書き出してみようと思う。いろいろ理解して見られるようになった今だからこそ意外に思えたところとか。備忘録。

以降、画像は全て 公式サイト からお借りしています。

【 ※ ここから先はネタバレ含みます。まっさらな状態で『となりのトトロ』を鑑賞したい方は見てから読んだほうがいいと思います。】

① 共感

まず、私がトトロを見るときはメイの視点で見ていたんだなと実感した。とにかくメイに共感してしまう。私も下の子だったからかな。小さいころの私はけっこうメイみたいな性格だったと思う。私にとってメイの言動や機微はどれもすごく自然に感じられる。他人事とは思えない。

「おとうさんお花屋さんね」のメイ

© 1988 Studio Ghibli

入院しているお母さんが帰ってくる日が延期になって、サツキとメイが喧嘩するところ、メイは「やだ!」しか言わない。会えると思っていたのに会えないのもやだ。ちょっとだけだろうとやだ。お母さんの病気が悪化するのもやだ。死んじゃうのもやだ。

あの素直さが、少しなつかしかった。

サツキは、しっかりしなきゃと思っているだろうし仕方のないことだとわかっていて、自分の感情を抑えようとしているように見える。メイは、自分をごまかすことをまだ知らないだろうし、感情にとても正直。事情があろうと、自分が嫌だと感じたから嫌だと言う。

生活の中で極端に気持ちを抑えたり言葉を控えたりしていたつもりはなかったけど、この場面を見ていたら、私はまだ素直になる余地がありそうだなと思えた。

メイの年ごろでは自分の気持ちをしっかり言い当てる言葉を知らないだろうけど、大人になった今なら考えることができる。「仕方のないことだとわかってるけど私はそれは嫌だと思ったし悲しい」というところまで、今なら言葉にできる。ただ本音を言葉にする、ただ受け止める、ということを大人はもっとしてもいいと思った。

(メイがこんな大人なこと言ったらそれはメイじゃないので、メイはそのままでいい。そのままでいてくれ。)

② 突風

(おそらく)引っ越した夜。サツキが外に薪を取りに行ったとき、強い風がぶわっと吹いてきて手ごろな枝がみんな舞い飛んでしまうシーンがあった。

この場面は小さい私には印象が薄かったようで、他と比べてあまり「覚えてる…!」という感覚がなかった。今回の再生1周目のときもこの場面、ふーんくらいで流して見ていた。しかし2周目に見たときにふと思った。

この突風、ねこバスか?

トトロかなとも思ったけど、トトロが飛ぶときの風はもっとふわっとしている。トトロの飛び方は突風の印象ではない。この速い風の直線的な、ぎゅん!って感じとか、風の音が、ねこバスが通った時と同じに感じた。

実は引っ越してすぐにねこバス来てたんか~、こんな序盤でもう登場してたんか~、と思うとちょっと楽しいシーンになった。

(私は今回初めてねこバスが思い浮かんだけど、監督のインタビューとかそういう製作周辺情報は耳に入れずに見ているので、もしかしたらこの場面の正解はすでに語られているのかもしれない。もしくはすでにみんなの解釈として暗黙の了解だった場面なのかな。なんかそんな気がしてきた。)

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③ 雨降りバス停

雨のバス停の場面。初めてサツキがトトロと対面して、傘を渡して、トトロがねこバスに乗って去る、という流れなのだが、

雨!雨いつ止んだよ?

という疑問が生まれた。ずーっと降っていた雨が、トトロが去ってサツキとメイが呆然としているときには止んでいる。そこで雨を観察するぞと思って巻き戻して見てみた。1st巻き戻しは途中でトトロに意識が持っていかれてしまい、2nd巻き戻しでようやくわかった。

なぜトトロに意識がいったのかというと、トトロがこの映画イチの笑顔になるから。他のどの場面でもこんなに満面の笑みははみ出していない。トトロの笑顔の全力ここなんだ、と思った。そこからもう雨とか忘れちゃった。

雨降りバス停のトトロとサツキとメイ

© 1988 Studio Ghibli

傘に雨粒が落ちてパラパラ鳴って、笑顔全開。そして、ダチョウ倶楽部ジャンプ。トトロがひょーんとジャンプしてズシーンと着地。その揺れでサツキも跳ねちゃう。雨がどわーーっと一気に落ちてくる。

ここでした。

ここずっと、樹のしずくが全部まとめて落ちてきているシーンだと思ってた。雨はタイミングよく自然に止んでいるんだと思ってた。でも意識して見たら、トトロジャンプの振動で一気に雨が降って、そして止んでいた。これ樹のしずくじゃなくて雨だったのか!という発見をした。

楽しくなったトトロが一帯の雨を、バス停一点集中で降らし切った場面だった。雨を降り止ませたのはトトロだったんだね、知らなかった。

それにしてもトトロ、傘をおもちゃだと思ったのかな。傘差したままねこバスに乗るし、この後の場面(晴れ)でもこの傘を差している。傘すごい気に入っちゃってる。なんならちびトトロたちも傘を差すという技を覚えていてかわいい。

④ 住処までのルート

トトロに最初に出会うのはメイだ。メイがちびトトロたちを追いかけていった先がトトロの住処だった。家の庭から草木のトンネルを通って山の上にたどり着き、クスノキの大木の根の穴から転げ落ちて、見上げるとトトロ。これがメイルート。

中トトロ・小トトロを追いかけるメイ

© 1988 Studio Ghibli

サツキがトトロに会いに行くときは同じルートではなかった。今まで同じだと思っていたけど、実はだいぶ省略されていた。サツキは、草木のトンネルを走って行く途中で木の根に足を取られて、転ぶ!と思った先の穴に落ちて寝ているトトロのお腹の上にダイブする。山の上には行かずクスノキの穴も通らない、直通ルートだった。

トトロの住処での着地地点もメイとサツキでは若干違った。サツキが急いでいたから草木が近道にしてくれたのかな。ありがとう草木。

改めて見るとトトロの住処には穴がいくつか見られる。トトロの住処につながる入り口は複数ありそうなので、いろいろなところからトトロに会いに行けるっぽい。いいなそれ。探したい。

家の庭からトトロに会いに行けるのも羨ましい。とりあえずサツキの通った直通ルートでトトロのお腹の上に飛び込みたい。

⑤ 存在感

トトロもねこバスも優しい。全体を通してじんわり優しい存在だった。

トトロは、土地の主とか神様とか精霊とか、そんな存在っぽく出てくる。たぶんねこバスも似たような立ち位置なんだろう。だから私は今まで、トトロもねこバスも自然の化身みたいなものという感覚でいた。

実際その要素はあるんだろうけど、大人になった今見てみるとそれでは少し違和感があった。自然はここまで人に都合よく動いてくれない気がする。夢がない考え方だけど。

トトロが人工物である傘を好んで持ったり、独楽を回したりするところで、ん?と昔は感じなかった違和感があった。トトロはただ自然側ってわけじゃない気がしてきた。

傘は経緯が描かれているし、オカリナは(多くの人が想像する丸みを帯びた水鉄砲みたいな形ではなく)ひょうたんみたいななにかに見えたから自然のものだとしても、独楽。回すための紐までちゃんと持ってる。独楽はだれかに教わったのかなとか、そもそもなんで持ってるんだとか考えちゃった。(まあ独楽の場面は「夢だけど夢じゃなかった」からグレーなのか。)

サツキとメイとちびトトロたちをお腹にくっつけて飛ぶトトロ

© 1988 Studio Ghibli

バス停の場面だって、ねこバスはトトロが呼んだところに来てくれるみたいだから特にバス停で待つ必要はなさそうだった。それなのにトトロはバス停で待っていた。人間の移動の仕方だ。

そもそもねこバスだって、バスだし。行き先の文字書いてあるし。
あと、そのまま直進できるだろうにわざわざ鉄塔をのぼって電線を歩いていた。そこ通るんだ、と思った。高いところを通りたい気分だったのかな、その気まぐれな感じはねこっぽいけど。ねこバスが風の化身みたいなものなんだとしたら人工物を選んで歩くのは不自然な気がしなくもない。

他のジブリ作品では、人ではない生き物が人の言葉を話すことも多いのに対して、トトロやねこバスは人の言葉を話さない。話さないけど、サツキやメイが話しかけたら理解はしてるっぽい。

自然の化身というよりは、人と自然の間の立場をとっているのかな。共存の象徴?
それか、人も自然に含まれているって捉えてくれる、なにか大きな存在。

子どもの頃だけ会えるっていうことを考えると、子供が思う神様像なのかな。だから夢も現実も区別なく子どもの前には存在するし、独楽や傘で飛ぶし(なくてもわりと飛ぶ)、サツキとメイを助けてくれる。人と自然を明確に区別しないのも子どもの視点に近い気がする。

そしてとても優しい印象なのは、子どものための存在だからなのかな。子どもからしたら自然だった、大人になった今見るととても沁みる、包み込む優しい存在。そんな存在がいる世界。あーー私もトトロとねこバスに会いたいよ。

『となりのトトロ』で出てくる不思議生物は、トトロ(大・中・小)、ねこバス、まっくろくろすけ。どれも大好きだった。まっくろくろすけの鳴き声(?)なんてよく真似していた。

子どもの頃に見たときはこの不思議生物たちの印象が強かったから意外に思ったのだが、印象のわりに出番が少なかった。出演時間が思ってたより短い。

それでもこんなに優しい存在でいてくれるし、しっかり印象が刻まれている。子どもの体感時間ではこの出演時間で充分ってことだろうか。出番じゃない、姿の見えないときでも、物語全体に存在している。そう感じられる。見えてはいないけどいると信じられるというのは、純粋な子供の想いに似ている。

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⑥「となり」

今更ながらこの作品のタイトルは『となりのトトロ』である。

トトロはわかる。トトロだもんね。

となりの、とは?とここにきて思った。

語感でつけたタイトルなのかもしれないし、子どもに寄り添ってくれる存在として、という心的な意味合いもあるだろう。しかし前述したとおりトトロの出番は短い。そんなに「となり」かなあ、と悲しくも思ってしまった。

2周目を見終わった時点で思ったので、3周目は 「What’s となりの」視点で見てみた。

まず、この作品のはじめのほうで「となり」という単語が出てくる。

サツキとメイの家の大家さん、「おとなりのおばあちゃん」。草壁家のおとなりさんだ。サツキのクラスメイトのカンタの家庭でもある、おとなりさん。

その「おとなりさん」の概念が現代とは違うなと思った。物理的な距離が違う。

携帯する電話もまだなく、家の固定電話も珍しい時代と地域だ。田舎で、一軒一軒の敷地が広い。おとなりのおばあちゃんは家だけじゃなく広い畑ももっているくらいだ。草壁家もおとなりのおばあちゃん宅も、家の建物とそれを囲う庭がめちゃくちゃ広い。

令和の感覚だと庭に家が何軒も建てられそうだと思ってしまう。何軒も。自宅の玄関から敷地を通って道に出るまでの間で、ご近所さんが作れる距離。

サツキとメイの家

© 1988 Studio Ghibli

家と家を行き来するのにも距離がある。自転車に乗ってもいいかなって距離。ジョギングで往復したらほどよい運動になりそうな距離。それが「おとなりさん」にあたる。距離が空いていてもおとなりさんなんだなあと思った。

そして、おとなりのおばあちゃん宅とは反対側の、草壁家にとってもう一つのおとなりさんが、ずばりトトロの住んでいる山であり、トトロなのだ。

草壁家を真ん中にして引きで映る場面が何度か出てきたはずなので見てほしい。草壁家とおばあちゃんの家の建物と同じくらい、草壁家の建物と山には距離がある。おばあちゃんちがおとなりさんならトトロもおとなりさんなのか、と思った。

トトロは心的にも物理的にも「となりのトトロ」だった。なんと。

基本は考えず感じたい

いつも映画を見るときはあまり深読みしながら見ないんだけど、今回は小さい頃の感覚との対比で浮かび上がったことがあったので掬ってみた。

『となりのトトロ』は公開されて久しい。小さい頃にトトロを見すぎるほど見ていた私は、トトロを考察しつくしたいとは思わない。なんとなく昔の感覚が残っていて、掘り過ぎたら夢が壊れるような気がしてしまう。

トトロに関しては積極的に周辺情報を集める気がないので、私にとっては目新しいこともすでに世間でさんざん語りつくされたあとかもしれない。周知の事実をまだ仰々しく言ってる人みたいになってしまったかもしれないけど、出会いや感動のタイミングは人それぞれということで、書いてみた。

私は情報より『となりのトトロ』そのものをこれからも楽しみたい。読後感ならぬ視聴後感が好き。トトロを見ると視界が少し明るくなるというか、視界に明るさを見つけてそっちへ行きたくなるというか。いつしか忘れていた身軽さをまだ持っていることに気づけるような、そんないい気分。