人によるから難しい…
だれかと話すとき、どこまで礼儀で話し、どこから自分として話せばいいのか、わからなくなる。いい塩梅がわからなくて世間話ができない。
すでに親しい友達はみんな、学生時代に数年の時間をかけて関係をつくってきた人たちだ。ありがたいことにそれが今も続いているから、インドアな私にも友達がいる。
学生の多くは、自覚がなくても意気込んでいなくても、共に時間を重ねる人とは友達になるつもりでいると思う。そういう前提がうっすらあるから、自分が勝手にくだけた会話になるよう接していても、相手との関係に齟齬がない。
対等な立場であるとお互いに認識しているから、肩書きによる謙りが必要ない。
しかし今、これから、新たに人と接するとき、学生ではないから前提がない。
大人というのは肩書きで話し方をつくっていく場面も多い。
仕事の同僚や、同じ習い事に通う人、ご近所の人などと、どんな関係を目指せばいいのだろう。人との関係は無理矢理目指すものじゃなく、過ごした時間が自然と構築してくれるものさ、という花輪くんの声も脳内に響くが、共通の基準がないと「今」どう接していいかわからない。
こちらが仲良くなりたいと思っていても、相手は仕事の関係者としてだけの関係を求めているかもしれない。偶然居合わせた仕事帰りの電車待ち時間、休日の話はおろか「お疲れ様です」以外の会話は嫌かもしれない。
そう考えると、はじめましての頃から続く礼儀でしか会話ができない。でも礼儀でしか話せないと、肩書きに対してとか、大人としてとかで、「失礼のないように」が最優先になりすぎてしまって世間話ができない。気楽に失礼なく世間話ができる人ってすごい。

学生時代の友達に話を聞くと、みんな人の距離感はさまざまなようだった。
「大人として過ごす時間」代表格の仕事での人間関係も、休みを合わせて海外旅行に行っちゃうくらい 同僚≒友達 な人もいれば、仕事関係の人とは仕事以外でできるだけ会いたくないし私生活のこともできるだけ話したくない、と言っている人もいた。
さまざまで良い、色々な人がいるし色々な関係がある。しかしじゃあ目の前の人とどう接すればいいのか、それが分からない。自由って難しい。
なかよくなりたい
私は多分、接する機会のあるたいていの人とは気楽に話ができるようになりたいタチだと思う。
大学生の頃、同い年の友達や後輩がいつの間にか、先輩に敬語混じりのため口で話していて驚いた。先輩も特段気にしていないようだった。その関係性が少し羨ましかった。
私はといえばなんだかずっとかっちり敬語できてしまっていたから今更で、敬語をくずそうと「頑張る」と違和感が強く、うまくできなかった。
対人関係は相手と自分の1対1の関係なんだから、他者を見て羨ましく思うのは違うのかもしれないけど、やっぱり仲が良さそうなのはいいなあって思ってしまう。
必ずしもくだけた話し方だから仲が良いってわけじゃないんだろうけど、なんか羨ましくなっちゃったんだよなあ。
大学という場の特殊な空気感もあるんだろうが、その人たちが、仲良くなっていく過程でお互いの心地いい距離感をすり合わせていった結果だったんだろう。失礼の領域を探って少しずつ挑戦して、相手もそれを許容して、そうやって相手との関係をあきらめず怠らなかった結果だったんだろう。
そのコミュニケーション能力が羨ましい。尊敬する。
お互いの適度な距離がその仲の良さなの、楽しそう。
模範解答
そういえば、奥山由之さんの写真集「flowers」がこの5月に発売予定らしい。楽しみ。
これも大学時代の話になるが、卒論のために人をたくさん集めなければならなかった。そのとき、写真部所属の後輩が、同じ写真部の友達を連れてきてくれたことがあった。この後輩の友達をAくんとしよう。
AくんはMacbookを開いて待ち時間を過ごしていて、画面の壁紙が見えた。その壁紙の質感がとても奥山由之さんの写真っぽかった。ちょうど少し前に奥山由之さんの最初の写真集「Girl」を買っていた私は、その壁紙の話を聞きたくて密かにうずうずした。

しかし初対面の先輩から突然パソコンの壁紙の話をされても大丈夫だろうか。えっなにこの人、ってならないだろうか。もしかしたら全く見当ちがいかもしれないし。知らない人と語るために壁紙を設定しているわけじゃないだろうし。知らない人と余分に話したくない人かもしれないし。
そして逡巡した結果出てきた言葉がこれ。
「げ、芸術的な写真だね。」
いきなり具体的な話を振る勇気が出なかったので、少し外側からふわっと婉曲にいってみた。どう転んでも差し支えない程度。「芸術的」という言葉に申し訳ない使い方をした気がする。
いや、写真は実際芸術的なんだけど。あんまり人に「芸術的ですね」って言ったことないから、自分で言って不自然だった。日常会話として不自然だった。
でも、言ってよかった。Aくんはとても明るい表情で、「写真家の奥山由之さんて人の作品なんですよ!」と説明してくれた。よかった。私「Girl」持ってますって言ったら、次にやる写真展のことを教えてくれた。楽しく話せてほっとした。
Aくんと会ったのはその一度きりだし、会話したのもその短い待ち時間だけだったけど、共通の趣味や好きなものから会話がはずむ、友達のつくり方の模範解答のような体験だった、と今になって思っている。歯車がかっちりはまるような、けっこう奇跡的な体験だったと思う。
大人同士だとなかなかそんな機会はない。あんまり自分のことを開示したくないかもしれない、と思うと口を閉ざしてきっかけを失ってしまいがち。
大人は個々それぞれ、その場の目的が別にあることが多いから、無理して関係を詰める必要はないのかもしれないけど。それでも、そういう状況でも友達になってしまえる人たちがいるからびっくりするし、尊敬する。
大人の余裕
学生の頃ですでに手こずっていたんだから、多様な大人たちの中で大人として過ごして友達をつくるなんて、私にはハードルが高いことなのだ。今記事を書いていて思った。
表情とか相手の機微を見て、探り探り関係を深めていくしかないんだなあ。
どこまで言葉や態度を緩めていいのか、締めるべきなのか、どのくらい自分自身を小出しにしていくか、質問していいのか。人によるから本当に難しい。
大人として、ではなく、自分として、話ができる人や場は貴重ってことだ。相手との適度な距離、焦らず時間をかけて測っていくしかないんですね。
考えすぎなだけだということも十分わかっている。
どちらかというと話している最中は考えられなくなりやすい。人と話すときって考えるのと並行して発言していくから、頭で考えるのが追いつかなくて必死になってしまう。言葉は発したら消せないうえ、刻一刻と変化していく話の流れや相手の機微にも配慮しなくてはならない。そうして焦る。
ちゃんと会話したいのに、結局頭がパンクして考えの足りないことばかり言ってしまって会話が成り立たず、相手にも違和感を与えてしまって、ひとり反省会が充実してしまう。あのときああ言えばよかったなあ、が増えていくから、人と会っていないときに面倒くさく考えすぎている。そして反省会はあまり功を奏すことがない。
(必要なのは脳トレなのかな…。)
ひとりの時間が増えたし、ひとりで過ごすのも好きだけど、人と接することへのプレッシャー(たいてい自分で自分に圧をかけている)はもう少し減ったらいいな。余裕をもって会話できるようになりたい。