他人の手がいい
他人(ひと)がノートや鉛筆を持っているときの光景が好きだ。
特に手のかたち。
別にノートや鉛筆に限ったことではなく、なにかの作業中とかでもよくて、とにかく自分の手では創り出せない魅力が、他人の手からは簡単に発せられる。
手を指の先までぴんと伸ばすって、日常生活の中にない動きだ。人間の手は意識しないとほんのり曲がる。手って、掌も指もぴーーんと伸ばしているより、ほんのりカーブしている方が美しいと思う。
腕を降ろして力を抜いた状態だけじゃなく、なにか持っていたり書いていたりパソコン作業をしている状態だって、手のどこかしらを曲げている。
骨のつくり?第一関節の山なり?なんかきれい。他人の手を見るとなんだか羨ましくなってしまう。私の手もあれだったらいいのに。他人の手になりたくなる。
自分の手を自分で見たときは全然そんなこと思わない。自分の手を頑張って他人から見たときの向きにして見てみても、他人の手ほど感動しない。
手ってそれだけで美術の題材になれるくらいの造形だから、自分の手を自分で見てきれいっぽい形や角度がないこともないし、鏡越しの自分の手は少しマシだけど、やっぱり他人の手の方が “いい”。圧倒的に “いい” のだ。
読み聞かせ会
小さい頃からそういう実感はあった。
私は読み聞かせ会が好きだった。保育園や小学校で、先生や有志のお母さんが本を選んできて読んでくれる。子どもたちがそこに集まって座っておはなしを聞く、あれである。
なんと絵本のときは開いた本を子ども側に向けて持ってくれるのである。
開いた本をキープするために本ののどの部分を下から押さえ持っている、あの右手の意図的なかたち、そろった指。ページをめくるまでページの端で本を支えて待機している、添えるだけの左手の、力まないかたち。
あの手のかたちがあるだけで、何度も読んだことのある見慣れた本がとてもかっこよく見えた。ああやって見せられると、いや、魅せられると、知っている話でも自分で読んだときよりなにかすごい秘密がある気がした。つい夢中になって読み聞かせられていた。我ながら素直な子どもだった。
ああやって本を開くのがとてもかっこよく思えて、読み聞かせ会があった日には家にある絵本で自分でもあの持ち方を試してみた。鏡の前で。本当に素直な子どもった。
やってみると自分からは絵が見にくいし、文字も自分から遠いところは全く読めなかった。ひとりでやってもなんの意味もない姿勢なのだが、読み聞かせ会の「大人の持ち方」に憧れて、あれをやれば自分もかっこいいような気がしたんだろうと思う。
そして結果、あんまりかっこよくなかった。自分で自分の手を見ても鏡越しに見ても、感動はなかった。
え?なんで?同じことをしているのに。私が子供だから…?
当時は気づかなかったが、あれ、他人の手だからいいのだ。意味が分からないけど、他人の手はその周辺のものや動きまで美しく演出していると思う。
対して、びっくりするくらい自分の視点からの自分の手は「フツー」だ。同じものとは思えないくらい、私にとって他人の手はなにか違う、フツーではない魅惑がそこにある。
書く・描く
同じように、他人が文字を書いているところや絵を描いているところを見るのが好きだ。私では決してかけないものをかいている、その過程を見ているのが好きだ。あれも、他人の手が魅力を上乗せしている。
不思議なことに、この「なにか違う魅力」は結果物とは関係がない。結果物はフツーに美しいし、フツーにすごいのだ。でもそれをかき上げる過程には、「なにか違う魅力」がある。つまり、少し大げさだが、決してきれいとは言えない字を見ても惹かれないが、その字を書いている最中を見たらとても魅惑的なのである。
その人の手の動きや、えんぴつなどを持つときの手のかたちが、重要なのだ。
結果物とは関係がない、と書いたが、厳密には少し違って、私は手の動きを多少なりとも感じる結果物が好きだ。
デザイナーや漫画家が最初にさらさらっと描いたようなラフスケッチだったり、文豪の生原稿だったり、絵画の素描や下絵だったり。
もちろんそれらこそ、かきあげる過程を見たいし、過程の方が手の魅力をまとっているのだが、少なくともパソコンで印刷した文字からタイプする手を連想するよりは、生原稿の文字の方が手を感じやすい。
作業過程がほんのりと見えるけど、自分では絶対にかけない文字や絵だから素敵に見えるのかな。プロがかいた下がきとか、すぐ欲しくなっちゃう。
ピアノ
私は10年はピアノを習っていた。最近は弾いていないから、もうあまりピアノが弾けますとは言えないけど。
ピアノこそ、他人の手で美しい最たる例な気がする。
スポーツでもなんでも、巧い人がさらっとやっているのを見たら簡単そうに見える。ピアノも例外ではない。先生が弾くと本当に簡単そうに見えるし、プロのピアニストが弾いているのを見たら自分にも弾けそうな気がしてくる。そういうとき、自分も弾きたくなる。
それで実際にやってみると全く自分の想像通りにならない。巧い人が何気なくやってたあの動きもこの動きも、素人ではどんなに集中しても頑張ってもできない。そんな当たり前のこと分かってたけどさ。って不貞腐れたくなる。分かってたけどさ。あの人たちのことを同じ人間とは思えなくなってくる。
簡単そうに見えるのは手の動きに限ったことではない。どんな動作や操作も、巧い人がやればさらっとやっている(ように見える)。自分には決してできない動き。憧れも相まってとても美しく見える。
しかしその中でも、ピアニストの手は本当に突出して「なにか違う魅力」を発していると思う。
私はピアノを習っていたから、ピアノを弾いているときに自分から見える景色を知っている。
自分に先生と同じ動きができないことはわかっている。それでも、先生がピアノに指を乗せただけ・置いただけの状態を真似しても自分の手がフツーにフツーでしかないの、おかしいじゃないか。
先生の手のかたちの方が、なんだか魅力がある。弾くとさらに動きという要素がプラスされて美しい。動きが美しいのは先生の技術が高いからなのだが、それが「他人の手の動き」であることも確実に魅力を上乗せしている。
だってピアノを弾く誰の手を見ても、「何か違う魅力」はあるのだ。
ピアノを習っているわけではない友達が「猫ふんじゃった」を弾いても、手が、その光景が、美しいのだ。自分だと正面のピアノの黒色に反射している自分の手を見ながら弾いたって、「なにか違う」かっこよさは出ないのに。フツーなのに。
ピアノはやったことがあるから私が自他を比較しやすいだけで、ピアノ以外にも楽器をやっている人の手って素敵だと思う。動きとかたちに、音色が加わる。あと楽器と手のバランスっていうのかな。とにかく手が、その光景をより美しく演出しているのはたしか。なんだろうあの魅力。
猫がねこじゃらしに飛びつく感覚が少しわかる気がする。反射的に美しいと思える。あれが色気なんだろうか。
鮮やかな隣の他人
本当に、他人の手が羨ましい。
いいなあ、他人の手。
私の手だって私以外の人から見れば他人の手なんだけどさ。自分じゃ一生、他人の手を見る角度や視点で自分の手を見ることがないから、結局他人の手が羨ましい。憧れちゃう。
かっこいい人が写ってるポスターとか見て、かっこいいから自分もあれ欲しい!って同じ持ち物を持ってみても、あれ?そんなに…?ってなる感じかな。持つ人間のことは考えずに持ち物のかっこよさだけを考えても、ポスターに写るこれと違う…って思ってしまうの、なんでだろうねあれ。
手の見え方も、隣の芝が青いのと同じなのかな。それか、入手前が最高潮で、入手後はなにかが減っちゃうあれなのかな。
自分の手が他人の手になる日は永遠にこないからあきらめるしかないし、他人が手を使ってなにかしている光景は永遠に鮮やかってことだ。