エッセイ

金沢みやげ日記 料理がしたくないときのわたしへ

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〔 2023/09/04(月) くもり ときどき あめ 〕

自分のためにきれいで自分のためにおいしいものを、自分の労力をかけずに食べたい。
そういう日ってある。

毎日毎食のメニューを考え食材を買い冷蔵庫を管理し調理をすることに疲弊して、「なんで人間はこんなに何度も食事をしないと生きられないシステムなのか」となにに対してかわからない文句と落ちこみから哲学しはじめてしまう日。
「映える料理なんぞ追求したかったら今ごろ料理人やっとるわ」「ずぼらレシピがずぼらじゃない」と簡単にやさぐれてしまえる日。
計量したくない日。
たとえば仕事帰りにカレー屋さんに立ち寄ってから帰っても、なにかもう少し健康的でじんわり味わうものが食べたい日。
おかずが欲しいけど考える気力がない日。

料理がしたいんじゃない食べたい日が、わたしには、ある。けっこうある。みなさんはどうですか。

たぶんわたしは料理好きの部類ではない。というか好き嫌いや得手不得手の問題ではなく生きるのに料理が必要だからやっている。

調子がいいときなら、やるからには丁寧にやるぞ、美味で美麗なもの作っちゃうぞ、と思える。完成して写真も撮って食べて味わって満足!な日がある。
でも人間なもので沈んでいることだって往々にしてある。元気がなくてもやらざるを得ないものってつらくなる。
外食は高くつくし、身体にとっては手作りや自炊が一番健康なんだろうということもわかっていて、余計に悩ましい。

料理が好きなひとというのは手の抜き方を知っているんだろうなと思いながらも、でもわたしは手を抜きたいんじゃなくてそもそも作りたくないんだ!と思っちゃうから今のところ料理好きではないんだろうとの自覚でいる。

作りたいときだけ作ってこと足りるならいいけど、泣こうが喚こうがお腹はすくし、いつでもどこでも(作ることとは別に)おいしいものを食べられるならそれがいい。おいしくないものよりはおいしいものを食べたい(ここで言う「おいしい」は視覚も嗅覚も含めた総合的な感覚だ)。
こうして人間のシステムに駄々をこねている。

さて。以前もらった金沢のおみやげがそんなやさぐれていた心身にとても沁みた記憶があったので、金沢旅行に行ったときに自分用を買ってきた。

不室屋の「宝の麩」
箱型の焼き麩に穴をあけてお湯を注ぐと中の具材があふれ出てくる、即席のおみそ汁やお吸い物。

 ふやき御汁 宝の麩|加賀麩不室屋

金沢のおみやげとしては定番なんだと思う。金沢駅でも観光地でも買えるし、軽いし日持ちするし、好みが分からなくても老若男女にあげやすいし。

以前ひとからもらったときのささやかに明るい印象が残っている。焼き麩のなかから具材が湧いてくるのがとてもきれいだった。お花型のかわいいお麩とかちょっとよさげな乾燥野菜とかが出てきて色鮮やかにお椀に広がる。はじめて作ってみたとき、この即席みそ汁に自分でも意外なほど感動した。

だから今回自分用に買ってきて、手の込んだことはしたくない、という日にさっそく作ってみた。

即席のおみそ汁やお吸い物を使いたいときってだいたい料理したいと思えないときだから、そんなときにこんなに簡単に風情を追求した汁ものが作れるなんて、うれしい。
焼き麩はお湯でほにゃほにゃになったあとでも香ばしい匂いがして、お麩屋さんのお麩だ!と贅沢なきもちになる。うれしい。

災害のときにこんな即席みそ汁あったらほっとするかもなあと思った。大人もこどもも。
ちょっとしたエンタテインメント要素もあるし、自分では料理に美を追求できないときこそ心のうるおいとしてこういう楽しみが必要な気がする。
救いになりうるよ。大量に備蓄したいし、してほしい。

ただ、なかなか成功しない。ちょっとむずかしい。
今回買ってきたぶんから2回つくってみたけど、2回とも失敗している。前にもらったときは成功してたのにな。

穴が小さすぎたりそそぐお湯の勢いが足りないと、具材が流れ出てくる前に箱型の焼き麩の中で具材がふくらんでしまって外に出てこない。(狙いをさだめようとコーヒーを淹れるときに使う細口のケトルでお湯をそそいだらうまくいかなかった。)

まあでもそういうときは箸で具材をつまみ出す。それもまた風情である。

数はあるので、まだ練習できる。お湯をそそぐだけなら練習する気になる。
結果できるお椀の光景がどちらにせよきれいなので、失敗してもそこまで気にならない。

風情のために貪欲にやかんからお湯をどぼどぼそそぐ。矛盾はしていないつもり。

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