〔 2023/03/15(水) はれ 〕
クッキー缶なるものを初めて買ってみた。お菓子屋さんのクッキー缶。春だから。
自分は単品で好きな種類だけ欲しいひとだと思っていたけど、最近は「ちょっとずついろんなものがある」のも好きみたいだ。
クッキー缶のなかにはいろいろな種類のクッキーが入っている。チョコチップもプレーンもナッツも桜もメレンゲも、3つ4つずつ入っている。普段なら見た目よりは味重視、チョコチップクッキーだけ8枚くらい袋に入っているような単品のものを選ぶところ。でも春のクッキー缶と題して売られていて、素朴ではありながら色とりどり、かたちもそれぞれ、きっと食感もちがいそうなクッキーがぴったり正方形の缶におさまっているのを見たら、それもいいなあと思えた。なんだか機嫌のいい景色だったのだ。
ちょっとずつ、というのはいいなあ。まだもう少し食べたかったな、というときが往々にしていちばんしあわせなフィニッシュだと最近思えるようになった。小さい頃から今でも、ビュッフェ形式の食事では取り過ぎる人間なので、なかなかうまくはいかないけど。(余談だけど、小さい頃はバイキングって呼んでた。)
たいてい「ちょうどいい」は察知できないまま、食べ終わって満腹すぎてこんなはずではなかった、になる。それはそれでいい時間ではあるけど、やっぱりどこか後悔の色を帯びる。思い返しても、ちょっとずつがきれいにできたときが結局いちばん満足している。
もうすこししゃべりたかったな、とか、もうすこし滞在したかったな、とか、もうすこし遊びたかったな、とかも。ちょっとずつがきれいにできたときのことがいちばん眩しいまま残る。それを過ぎると多かれ少なかれ後悔の感覚も混ざって残る。良し悪しとは別に。
自分が特に好きなクッキーだけ何枚もあるのもいいけど、ちがう種類をひとつずつお皿に並べるのもしあわせだ。むずかしいことを考えずに、目の前の機嫌のいい景色から機嫌よく選ぶのは密やかにたのしい。
1回のおやつで、1種類につき1枚まで。いろいろなクッキーがクッキー缶におさまっていると自然とそんなルールになる。1種類だけ先になくなるのはためらわれるから。食べたとき、ものすごい勢いでこれが好きだ!と思っても、その日のおやつ休憩ではその種類はいちまいで終わってしまう。毎回ラス1。すこし惜しい感覚が残ると、そのクッキーがすこしだけ頭の片隅にとり置かれる。その状態が、いちばんそのクッキーを好きな時。そんな気がして最近は食べすぎ防止につとめている。(つとめてはいる。)
たいてい自分にとって特においしいものほど、食べ終わると「ああ、なくなっちゃったなあ、ずっと食べてる時間がよかったなあ」と切なさも混じるタチなので、そう思ったらたぶんいちばん大成功なのだ。「あとすこし欲しいなあ」は「ものたりないなあ」とは近いようでけっこう違う感覚だってこともわかってきた。大人になったよ。
ただ、せっかくきれいなクッキー缶の景色があるのに、お皿に出したらクッキー缶の景色をまる無視していて意味がない気がして、取り出した後にすこし残念だなあという感覚はある。(でも缶のまま食べるのもなあ…とも思っている。) きれいな景色を崩すのもすこし悔しい。クッキー缶というのは、缶をひらいたその景色が家にあってそこからいつでも選び取れるという機嫌のよさと、選んでいるときのわくわく感がメインのようだ。
クッキー缶におもうこと、感覚、総じて春に似ている。きれいな満開はどこまでか、ちょうどいいところを探っているような感じとか。機嫌のいい感じも、なんか惜しい気分も、崩したくない景色のバランスがある感じも。だから春のクッキー缶なんだね。クッキー缶と春は相性がいいみたいだ。
自分で作ろうとしたら数はできても種類は難しいから、クッキー缶、とても意義がある。そして第一に、結局おいしくなければわくわくしないのである。どんな味も食感もまちがいなくおいしいので、お菓子屋さんは偉大。
クッキー缶のまんなかに桜のクッキーが入っている。今週末に桜が満開になるって聞いたけど、雨が降るらしい。春は雨も花を散らして、降り甲斐あるだろうなあ。私はクッキーの桜を湿気から守ろうとしています。