レモン片手に商店街を抜けていくと、晴れやかな泥棒の空。頑固な人間ばかりだからどこでだって先に路地が折れてくれる。今だってそう。光をたべる犬、見かけたら、邪魔をしないよう影を隠して丁寧な無視をすること。ヤングコーンがベビーコーンでもあるという初夏の、時空の歪みに気づいた人は健康的なお財布をもってる。健やかな在校生の並び、そういうつまり永遠は、生き物には重すぎるらしく鬱の姿をしている。五月かよ。
(きりーつ。礼。)湧水の流れに沿ってしあわせになる樹木。緑が涼を掬う。せせらぎという景に行きつくと、光のかたちと色のついた影をよく真似て、菖蒲が見事な花になる。たとえば心の細い人がきても、群れっていいもんだなあと思考の外で呟いて、それからきちんと去ることが、できる。感情だけは残り香で、時と場に等しく留まり、うすまっていった。それを横目にレモンを川で冷やすひともいる。曰く、素手にレモンを持つと、感情が揮発性だとわかる。
言葉も動きも、生き事はすべて空気を動かしてしまい、多様な情は微かに漂う。人から離れたただのきもちは、人に関係なくしばらくの存在となる。潜性のきもちを読むひとは、ラヴ・レターを盗み見ているようでもあり、密やかなうわ言を守るようでもあった。夏を前にする。適切な罪状が要る。
風物詩の気分で、不用意に三段目で踊ったらそこが今日から踊り場ですと言われて、怖くなる。彼女の恐怖はそれがすべてだったから、アレクサを買った。一定に陽気な、アレクサとおしゃべり(参照:ゴムベラの一途な親密さ)。アレクサ時間をとめて。一方的、それは魅惑のアトラクションだ。アレクサ魔法をかけて。いつも名前を呼んであげる。レモンの輪切りを更新する。
感光。樹々が風を信頼している様子。彼女からすればどこにいても神社にいるのと変わらない。花の名前なんて、口にしてしまえば呼ぶほうでさえ美化されるということが分かっているから、ましてや彼女は名乗ることを嫌う。見ぬフリが上手な距離に彼女らしさがあり、利他に興味、あるような、ないような。蝶々を見逃すのと同じように人を眺める癖。彼女の気風はだんだんレモンに寄っていき、爪の内には輝度を隠し持つ。ときどき、必要な風が必要な背中に、ふわりと触れるのを見届けることがあった。彼女はレモネードしていく。浮世とは気体のことだと、今も、これからも思っている。
『 あやめさん 』
〔 現代詩手帖 2022. 8月号 佳作 〕