(文章は毎日じゃなくていいかな…)
試しに3日ほど心のままに吐露する日記を書いてみたけど、感情のままに書いた文章を公開するってことに慣れていないからなのか、なんか違うような気がした。
それはツイッターでやればいいかなって思っちゃった。140字で書き足りないような出来事や心の動きをここで文章にすればいいかな、と思う。たまにでよさそう。
なんでだろ。「毎日」「日記を公開」というのがどうも違和感。すごくわくわくしていたやりたいことも義務になると途端にやりたくなくなってしまう。ひねくれている…。(これも結局継続できない言い訳なのかなって感じは否めないけど。)
今は詩を書きたい。でも日記を書くとそれ以上他に言葉がいらない気がしてなにも出てこなくなっちゃう。だから文章は今は書く気になった時に書いていけたらいいかなって思った。日記で共有できるよりも詩で共有(共鳴?)できる方が不思議でなんか興味あるみたい。
でもやってみて精神衛生の面でとってもよさそうだった。こんなに感情のまんま書いてもいいんだって思えたから、たまに素直に文章を書こう。そのくらいの気持ちでいる方が楽しく続けられそう。
ゴッホ展いってきたよ
上野の東京都美術館でやっているゴッホ展に行ってきました。急な思いつきで行ったけど、平日だったから行って当日チケット普通に買えた。
東京の美術館でやる企画展は人が多いから行くのに気合いがいる。今回も当日の謎の勢いがなければ行かなかっただろうな。平日で空いてた方なんだろうけど、それでももうちょっと周りを気にせず見たいと思ってしまう。絵に集中できる時間が短い気がしてしまう。
ただ、それでもやっぱり行ってよかった。ゴッホの絵が、私たちのイメージするあのゴッホの絵になるまでの変化を追いやすかった。描かれた年順に絵が並べられていたり、ほとんどの絵に説明がついていたりして、素人にも分かりやすい展示だったと思う。
東京都美術館は展示の途中エスカレーターに乗るんだけど、一つ目のエスカレーターに乗った時になんだかぼーっとしてしまった。絵をただ見ることに集中する、久々の感覚を実感していた。ぼんやりするような研ぎ澄まされたような感じで、心地よかった。瞑想に近い感覚だった気がする。美術館ひっさしぶりで、これこれこれ…!っていう謎のテンションもあり。
展示の感想
ピカソもそうだけどゴッホも、初めの頃の絵は見たままに近い描き方をしていた。そしてやっぱり上手い。いろいろなものに刺激を受けて、思想も明確になって、後期のあの「ゴッホといえば」な絵になっていく。
今ここに展示されている絵は本当に画家の人生なんだなあって思った。
ちなみに、ゴッホの絵を見るときには予習として、原田マハさんの『たゆたえども沈まず』を読んでから行くと、泣きたくなるくらいゴッホやその周りの人の人生を感じられます。
(今回私は急に思いついて出かけたから直前には読んでないけど、以前読んだ記憶だけでも絵を見て感じるものがとても増えた。)
知識はほとんどないけど、ゴッホの絵の切実さや緊張感や命の実感が5倍見えるようになる。…画家の人生…泣いちゃう…。
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①素直
27歳からの十年で2000点も描いた画家。今回の展示で、ゴッホ素直だな、という印象を受けた。
素描で陰影や人のかたちの描写を徹底的に練習して、年下の先生(従弟)から油彩を教わって、印象派の画家たちと知り合って自分の絵が遅れていると思ったら印象派の色づかいや画法を真似てみたり、指摘されたらそこをあとからちゃんと考えていたり。
②肌感覚にくるもの
あと、どの絵も迫力がすごい。これは生で見ないと味わえない肌感覚だから本当に良かった。
ゴッホって絵の具を厚めに、筆致を残して仕上げる。勢いを感じるし、色も大胆に使うから、見ているこちら側に迫ってくるような、ぶわっと現実に拡がってくるような、目を離しがたい強さと緊張感がある。パワー系。
そして、はじめの素描のときからちょっとその気があったんだなと思った。筆圧は強そうで勢いを感じるし、表面の質感にこだわっている感じも素描の頃からあった。個性が徐々に研がれて長所として突出したのが後期の有名な作品たちだったのかってちょっと納得した。
美術館に行ったら印象的だった絵はポストカードを買って帰るんだけど、当然ながらポストカードだとその迫力や肌感覚は実感できなくて残念。3Dプリンターのレプリカもまだちょっとなんか足りない。生はやっぱりすごい。
絵の具の密度が濃くて、なんというか、ちゃんと呼吸してる?大丈夫?ってなった。浅い呼吸で一気に描き上げる画家を想像してしまう。見ているこっちも集中しちゃう。絵を見れば被写体の性格・性質が生きた実感を伴って伝わってくるけど、同時にそれを描く画家の視線も強く感じるのがゴッホの絵だと思った。
ゴッホの絵は、見れば画家がなにに憧れていて、なにを美しいと思っていたのか、みたいなことが感覚として伝わってくる。そのわかりやすさが人気なのかなって思った。
③ちょっと楽しい美術館での絵の見方
私は、人の群れができているところに混じって順番に絵を近くから見た後に、フロアの真ん中から見渡してみるのが結構好き。「ここは私の宮殿だ」くらいに考えて、みんなを招待したという設定で遠くから絵を見るちょっとした遊び。空間まるごと楽しい。
遠くから絵が並んでいるのを見ると、空間のなかでの存在感がより特徴的に感じられる。ゴッホの絵は離れて見ても威力が強い。いくつも並んでいるとバキッとした生命力を感じる。いいことも悪いこともたくさん感じるなか、命に近いところで描き続けたんだなあと思った。
遠くから見ると、印象的なものはもう一回近くで見たくなるから、そうしたらその絵をまた近くで見る。
美術館は照明とか壁の色とか空間ごと絵を楽しむために作りこんでくれているから、そのフロアの「空間の贅沢」を感じるのもしあわせ。離れてみると少し冷静に見られるから、なにがそんなに自分に迫ってくるのかをぼーっと考えるのもをかし。
④ひとりに揺るがず届く
人物はキャラがたっていて生きた感情や動きが滲んでいた。自然は想像も反映されつつ躍動感があって勢いが強い。家や物などの無生物はむしろ動かず固着しているようで、存在が際立って疑いようもなく”ある”んだなと思った。ゴッホの絵について月並みだけど、そんな印象。
それと今回の企画展は「ヘレーネとフィンセント」というサブタイトルがついていた。(フィンセントはゴッホの名前。)ヘレーネって誰?って思っていたら、海運業で成功した人の奥様だそうです。ゴッホの絵が全然有名にならないうちからゴッホの絵のすごさに気づいていた人らしい。
この人がゴッホの絵をまとめて購入したことが話題になって、それがゴッホの絵の価値を世界に認識させるきっかけにもなったとか。
ゴッホの絵は、ゴッホの弟や、後に弟の妻が、そのすごさを揺るがず確信していたことで世界に広めていったものだけど、ヘレーネもゴッホの絵に絶対的な魅力を感じたひとりってことなんだろう。ただひとりの心に深く刺さるものは、時間がかかっても多くの人に知れ渡るんだなあ。
私が今「ゴッホの絵すごい」って思えるのは世間にそう認知されていてバイアスがかかっているからだ、って言われたらその通りだと思う。
無名の画家の絵を見て感動した自分の感性とその画家の感性を、画家が無名のうちから揺るがず信じられるのは稀有なことだと思う。
感動した対象の良さが相対的なものではなく絶対的なものだと、一貫して言える人っていつの時代もかっこいい。「見出す人」も「見出される人」も、確固たる信念があって憧れる。
そういう人が良さを教えてくれて初めて理解できる場合も多いから、ゴッホを見出してくれた人々には感謝。
たくさん描いたうち生前は数えるほどしか売れなかったっていうのが本当に悔やまれる。こんなに世界的に魅力が伝わるのを知っていたら、ゴッホも自分に絶望したまま亡くなることはなかったんじゃないかな。そこがやはり悲しい。ゴッホの人生をひしひしと感じた展示だったからなおさら。
秋のよき日
実はゴッホの絵ってそこまで好きじゃなかった。人気だよねって思うくらいだった。魅力が分かるようになってきたのはここ数年。何度かゴッホの絵を見ることがあって、何度も見たらここ数年でなんだか好きになってきた。単純接触効果。
煉獄さんじゃないけど、命を燃やして描かれたものをたくさん見ることができた。切実な絵ばかりで圧倒された、いい時間でした。
上野公園の広い道が晴れていてほどよく風も吹いて、樹の葉擦れの音もさわさわしてすがすがしくて、人がみんな楽しそうで、秋を実感できてそれもよかった。美しい日だった。広くて明るい光景は久々だったな。
展示の余韻に浸りやすい、芸術の秋で、とても満たされた休日だった。