エッセイ

あけまして、人生ログインボーナス欲しいよ。

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もう1月も下旬に入ってしまったけど、まだ2022年になってから初めて会う人にはギリギリ言うこともあると思うので。

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

会える人がいるのはうれしい。普段会えない人ばかりだからなおさらうれしい。

例年よりも使う回数は少ないかもしれないけど、数年ぶりに会う親戚や友達に言った、「あけましておめでとう」。

次の年に変わったから、おめでとうと言いあう。行く年を1年間よく生き延びたね、来る年を生きて迎えられたね、という祝福の意味合いなんだろう。

日常生活ではなかなかおめでとうとは言わない。おめでとうって定型なあいさつではあるけど、おはようとかよろしくとか、そういうあいさつとは違う。

なんとなく、「おめでとう」って変化するときに使う言葉だと思っている。

だから直近に変化の予定がない人には縁遠い言葉でもある。入学、入社、昇給、結婚、出産など、なにか目に見えた証拠を伴う変化がないと、おめでとうとは言われないし、言う機会もない。

これがゲームの世界なら、そういう社会的な変化に対するお祝いは例えば、ボスを倒したときの報酬とか、物語を進めてなにか指示を達成したときの報酬にあたるんだろう。

もしあなたが今、ゲームの世界は楽しいもので、現実の世界は辟易としてしまうものだと思っているなら、その差はきっとお祝いの数だと思う。

現実には圧倒的にレベルアップの瞬間が足りない。ログインボーナスも足りない。

ゲームの世界なら経験値がたまってレベルアップをするたびに報酬という名のお祝いがもらえるのに、人間として生活する経験値が毎日毎時間たまっても、レベルアップ音は聞こえない。毎朝起きても報酬は出ない。

しょこたん(中川翔子さん)が以前、年齢はレベルだと思っている、といったことを言っていたと思う。とても素敵な考え方だと思った。

でも、普通の日常365日に対して、時間を重ねた証拠になり「おめでとう」と言える日が誕生日たった1日だけなんて、少ない。ゲームだったらお祝い(=報酬)が少なすぎてみんな途中でやめてしまう。

新年に変化したからお祝いする、というのは性質としては誕生日に近い変化の感覚だと思う。入学や結婚などの社会的に意義がある(っぽく見える)変化ではなく、単純に人間としての時間や経験を重ねたことに対する「おめでとう」。

誕生日と新年。ずっと地続きの日常を区切ることで生まれるお祝いの瞬間。数字が増えたという変化の瞬間、ということにしてお祝いできる。

それでもやっぱり少ないと思ってしまう。もっとお祝いしてほしいし、したい。社会や他者にとっても意義のある変化をしたときだけじゃなく、人間としての個人的な経験と時間に対して、もっと労ってほしい。

レベルアップやログインボーナスが年に2回なんて少ない。毎日ログインせざるを得ないのにログインボーナスがもらえないゲームなんてやりたくなくなる。やりたくなくなってもやめられないのが現状だから、それなら楽しく生きられるようにもっとお祝いを増やしたい。

そもそも、社会や他者に証明できる変化がないと祝福に結びつかないなんてことはないはずだ。

もっと個人的なタイミングで、気分で、気楽にお祝いしていきたい。自分以外の人にとって無意味なときでも、自分で自分を堂々と祝いたい。経験値をためた実感ということで、レベルアップやログインボーナスの頻度もタイミングも自分で決めたい。ケーキやお赤飯は誕生日以外だって食べてもいい。

回数でいい。社会的に共通認識のあるお祝いの方がお祝いの「質」が高くなるのは自然だ。大勢が祝うんだから盛大になる。自分の個人的なタイミングで祝うときには、質は求めなくていいから、回数が欲しい。

究極の内輪でこじつけで、ささやかに、こまめに。自分に「おめでとう」の一言が言えればいい。お祝いでもあり、労いでもある言葉。

そして、人間としての経験や時間を重ねている人、って誰でもいつでも当てはまるんだから、おはようとかよろしくとかそういうのと同じくらい、他者にも日常的にしれっと「おめでとう」したっていいと思う。

それがしにくい社会ってきっと殺伐としてくる。

考え方によっては、日常でよく使うあいさつはなんでも祝福なのかもしれない。「おはよう」って誰かに言える状況ならそれは奇跡的なことだ、という意味で。

超ポジティブ幸せマンになれるときならそうやって、「おはよう」の一言だけで、毎朝のログインボーナスになっているのかもしれない。無敵状態でなんだってお祝いになる。

でも現実は、常にそうキラキラとは捉えられない。それどころか、忙しい日常の中で超ポジティブ幸せマンになれる時間って少ない。

朝。通勤・通学の準備で急いでいたら部屋のドアに足の小指をぶつけて「痛い」しか言えないとき。「この平和で奇跡的な日常に感謝!今日はお祝いだ!」とは絶対に思えない。

家から猛ダッシュで駅まで行ったのに乗りたい電車の扉が目の前で閉まったとき。電車に乗ってから忘れ物に気づいたとき。「お祝いだ!今日はめでたいなあ。」という思考にはならない。

(すぐにそう考えられたら幸せだろうなあとは思う。)

命には関わらないけどなんだか一人で虚しくなるようなことってある。気心知れた人が傍にいたら一緒に笑えるのに、一人だと全然笑えない。どうしようもない日常。

自分で自分を祝福し、こまめに労うことができるならそれにこしたことはないけど、それができないときって、他者に言ってもらいたい、笑ってもらいたいときだろう。

だからやっぱり、「おめでとう」がもっと日常的に気楽に交わされる言葉になったらいいなと思う。

あなたを気にしてるよっていう態度が、他者からの態度が、欲しい時ってどうしてもある。

「あけましておめでとう」を当然のように言いあって、毎朝あるはずの日の出を年に1回の「初日の出」という特別なものにして、明るさを浜辺で見つめるなか、そんなことを思った。

みんなで「おめでとう」を頻発しても不自然ではなかった。お祝いしやすいっていい時間だった。理想論ばっかり考えちゃったお正月。